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2007年12月22日 (土)

お詫びの続き

先日のお名前間違いに、後日談が発生してしまったりなんかして、ちと調べ物の続きを。
ていうか、今回は本格的に反省モード、久々フィールドワークのレポートにてお送り致します、はい。

「神田岩本町の金山神社」の資料をきちんと読み直していたら、どうも創建が比較的新しいお社だそうで。
1927年に京都は伏見稲荷からの勧請、となってるんですね。はてそうすると、江戸のふいご祭はこちらが中心地じゃないんだなあ、とか思ってネットの海を漂っておりました。

 

金山神社というと、川崎の「かなまらさま」が有名だったりしますが、や、こちら詳細はご自分でお調べ下さいと逃げておいてですね。金山神社が合祀となっているお社が、やはり神田にあったので調べてみました。そうしたらば、だ。
「太田姫神社」とおっしゃると……わたわた、ええっと、うちのご先祖で秩父の山師、錫だのニッケルだの掘ってたのは、太田さんという名前だったりするんですよ。うわあ、叱られ……。

で、これは直接お詫びにお伺いと、訪ねて参りました。

正面 
太田姫ご由緒 

うっかりカメラ忘れてったりボケをかましましたが、お友達にお借りして無事写真も撮ってまいりましたよと。んで、縁起を拝見するとなかなか由緒正しきお社でした。わたくし縁起とか結構好きなもので、詳しく書いてしまいますが。

古社名 一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
      菅原道真公
      徳川家康公
末社金山神社 金山彦命
おお? 何だか偉い方のお名前が出てますよ。

さてそして、どのように太田姫までたどり着くのか、まずエピソードその1。
いきなり小野篁まで遡っちゃってちょっとびっくり。こちら閻魔大王のお手伝いをするために、この世とあの世を行き来していたとかいう凄い伝承の方ですよね。

参議小野篁(おののたかむら)は小野妹子の子孫。百人一首の歌人、そして漢詩人としても有名な平安時代の実在の人物ですが、反骨精神の逸話もたくさん持っている方です。この時代の常というか、朝廷の批判をしたことによる流罪という不遇の時代を過ごしたという経歴もあります。
身の丈180センチの大男だったとか文武両道に逸話があり、後に武蔵七党の横山党がその子孫を名乗ったり、悲恋物「篁物語」の主人公になったり、波瀾万丈の人物像を持つ存在です。

その篁が834年、名和港から出港して大嵐に遭い、あわや沈没かという瀬戸際にも冷静に船の舳先に陣取って、観音経を一心に唱えていたと。
すると波の上に老翁が現れ、君のように才識のある人物は直ぐに都へ帰れるが、疱瘡、つまり天然痘を患うと命がない、だが自分を祀れば病にかかることはない、と告げて波の中に消えていったのだそうだ。

ええっと、老翁なのにそこで太田姫と名乗ったとかいう、ちとはてななところもあったりしますが、確かにこの時代、疱瘡とは大変な恐怖の対象だったのだろうと思います。期間をおいて流行を起こし、大量の犠牲者をだすいわゆるはやり病は、疫病神、疱瘡神の信仰や風俗として日本各地に残っていますね。
現代においても、天然痘については予防法が確立して根絶宣言が出ているとはいえ、ウィルス性の流行疾患は罹ってしまってからの治療が大変困難であるという状況が変わっている訳ではないですし。

で、お告げ通り篁は翌年都に戻ることができ、その後は順調に出世します。彼は自ら翁の像を刻んで常に護持していましたが、後に山城国、今の京都府に神社をつくって、これを祭ったと。まずこちらが一口(いもあらい)神社だということですな。

現在の京都には本家一口神社は残っていないらしく、見付けられなかったのですが、一口という地名はあるようです。この地名、もともとはおそらく「へも」、つまり疱瘡を洗う、という由来をもっているようなので、この地そのものが疱瘡に関する何らかの伝承をもっていたのではないかとも思われます。

さて、続いてエピソードその2。一気に1457年まで進みます。
江戸城築城で有名な太田道灌最愛の姫君が疱瘡に罹り、命が危ないという時。一口神社の噂を聞いて早速急使を使わし、祈祷の一枝と幣を持ち帰ると、その日から拭うように病が癒えて姫は無事一命を取り留めたと。

道灌はこれに感謝して城内本丸に神社を建立し、また姫君もこの社に信心深く仕えていたところ、ある時この神が白狐を現して、我この城の鬼門を守るべし、と託宣。お告げに従って社を鬼門に移し、太田姫稲荷大明神と奉唱するようになったとのこと。んで白狐ちゃんが、現在でも太鼓の上を飛んでたりするのです。

太鼓 
お狐様 

太鼓の桔梗紋は、太田家の家紋ですね。あーうー、実をいうとうちの親戚の太田さんちは、ほんとーに太田家の所領であった川越あたりに住んでたりですね……やあねぇ、もう。

さて、そしてさらにエピソードその3。1606年までやってきました。
1603年に江戸城に入った徳川家康は、この年江戸城の大改築を行い、城内にあったこの社を西の丸鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移し、そのためにこの坂は一口坂、いもあらいざかと呼ばれたと。

江戸城鬼門というと上野は寛永寺が有名ですが、こちらは徳川家が新しく建立したということのようですね。しかしその後も太田姫大明神は代々将軍の崇拝を受け、その修理造営は徳川家によって行われていたとのこと。江戸時代には将軍家もたびたび疱瘡の悲劇に見舞われていますから、その御利益を願わなくならないこともあったのかもしれません。

えーと、元々の調べ物発端はふいご祭の蜜柑投げであった訳なのですが、この太田姫大明神がその江戸の頃ふいご祭の主役であったのかは、このご由緒には特に記述はありませんでした。
そして金山様に至っては、神社の裏手の方に、こう、ちんまりと。時間が遅くて、既に真っ暗なところを勘で撮影してたりして、半端な画像ですみません。

・・・金山様? 

金山様ご由緒 

江戸時代の金山様は、金座銀座の守り神として金銀財宝をもたらす御利益が信じられたとのことなので、どちらかというと、ふいご祭はやはり太田姫大明神の方なんですかね。

しかし幕末から太田姫神社には不運が続いたようです。慶応2年1866年には本郷春木町から出火した大火により、ご神体である神鏡を除く全てが消失。さらに大正12年1923年には、関東大震災でも再び類焼を受け、湯島天神社に一時避難されていたとか。そのご縁で、現在の御祭神に菅原道真が入っているのでしょうかね。
その後社殿は再建されましたが、1931年には総武線建設のため、聖橋たもとの以前の場所から、建築物を移転して現在に至るようですね。そちらの場所は神田明神やニコライ堂の傍になります。今でも御神輿の巡行は、昔のとおりの地域を回るのだそうです。
江戸にお社が出来てからでも500年、ご由緒全てを含めれば1100年にも渡る信心のかたちは、今でも繋がっているということなのでしょうか。

提灯 

 

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